問題を解決しようとしてはいけないは本当か?
最近は「仏教ブーム」らしく、我々30~40代にかけての男女を問わず、般若心経や座禅(瞑想)に勤しむ方が増えてきたというニュースを目にした。
これが良いことか、悪いことかはよくわからないが、明らかに言えることは「物質的に満たされることが自分の幸せではない。」「自分の幸せ・人の幸せとはいったいナンなのだろう?」という集合的無意識が発している大きな問いに対するひとつの「解」だと思う。
そして何を隠そう、私も仏教は哲学として高く敬っている。
やはり、昨日のブログにも書いたとおり、物質的には非常に満たされ、だからこそ精神を高めることも同時に求められているにもかかわらず、そういった精神修養をする機会というのがあまりにも乏しい世の中にあって、宗教というのはひとつのそういった場であることは明らかである。
ただ、こういった宗教がブームとなってしまう中では、いくつか気をつけなければならないことがある。特に仏教については、あまりにも研ぎ澄まされた教義であるため、それ相応の知識がないと、お釈迦様の教えを誤って解釈している「宗派仏教」に取り込まれてしまう可能性があるということだ。
その代表的な「誤った解釈」というのをひとつ見ていこう。
私はとある仏教者が書いた本で、「問題を解決しようとしてはいけない。」「問題は全て必然なものなのだから、やがて自然に解決される。」というのを読んだことがある。
私はこれを読んだとき、「それって本当にお釈迦様が言ったことかいな?」っと疑問を覚えた。
なぜならば、「問題を解決しようとしてはいけない」という人は、問題を解決しようとしている人を問題視し、その問題を解決するために、「問題は解決しようとしてはいけない」といっているのだ。
これは明らかに「矛盾」している。
こんな矛盾したことをお釈迦様はおっしゃったのだろうか・・・?
人間の根源的な欲求として、どんなに満たされていても、常に何かを問題視し、それを解決しようとする、もしくは解決できないために悩み・苦しむというのは、当たり前なのではないか?
確かにお釈迦様は、全ての悩み苦しみは「執着」から生まれるととかれた。
執着とは、恐らく何らかの問題を解決したいという執着だろう。
問題とは、理想と現実のギャップだ。
このギャップを埋めるために、一生懸命悩み、苦しむ。
これを仏教では煩悩という。
お釈迦様は、この煩悩を克服するために難行・苦行に明け暮れられた。
しかし、この煩悩を完全に克服することはできず、悩みをなくすための難行・苦行というのは無駄であると説かれた。
そして煩悩については、「それにコントロール(支配)されるな。」っと言っているのであって、「無くしてしまえ」といっているのではない。なぜなら、煩悩がゼロの状態とは「生きること」に対する執着がなくなった状態であり、その人間はまもなく死んでしまうからだ。
全員が煩悩を克服したら、それは人類滅亡の瞬間なのである。
人間はその脳の構造上、完全に「問題(より良く生きることの執着)を無視することはできない。」
先に述べたように、「問題を解決しようとしてはいけない」という人は、問題を解決しようとしている人を、問題視している。
これもひとつの問題への執着である。
もし問題視していないのであれば、「問題を解決しようとしてはいけない」ということを発言する必要は無いからだ。
だから、問題を解決しようとしてはいけないという格言(?)を発せられた人は、実は問題を一生懸命解決しようとしているひとと、同じことをしているということだ。
人間は、常によりよい未来を思い描き、それに向かって精進することで進化してきた動物である。
よって、「問題=理想と現実のギャップ」は解決すべきものなのだ。
但し、この問題解決行動でひとつ気をつけなければならないことがある。
それが、この数十年で大きく定義の変わった「自由」と密接に関連している。(次の議事は、この「新しい自由の定義」について、書きたいと思う。)
いずれにしても、素晴らしい仏教の教えだからこそ、その教義を敬う人をよりよく生かすことも、逆に殺してしまうこともできる。
まさに昨日のブログに書いたとおり、便利なものほど切れ味が鋭いのだ。
これから仏教の世界を探求される方は、その教えそのものを、常に高い抽象度から眺める訓練をしたほうが良い。
抽象度を高めることによって、問題を解決しようとしてはいけないという人と、問題を一生懸命解決しようとしている人が、実は同じレイヤーの人間だということが良くわかるようになる。
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