カテゴリー「親育て」の3件の記事

教育とは教育者自身の身を律することから

昨日の続きになります。

昨日、親としての教育は、子どもに「こうなってほしい、ああなってほしい」「こうあってほしい、ああなってほしい」という理想の生き方やあり方を、親自身が自身の身を律して実践することだと書きました。

突き詰めていくとなんとも簡単なことなのですが、こんなことに気がつくのにずいぶんと時間がかかったような気がします。

ここで「なぜ時間がかかったんだろう?」っという問いが生まれました。

なぜ、こんな簡単なことに気がつくのに、こんな時間がかかったのだろう・・・

こんなわけのワカラン疑問が浮かび上がったとき、私は自分の内側と外側双方の原因を探ることにしています。

恐らく自分の外側の原因としては、「そんなことをいっている人もやっている人も自分の周りにはほとんど居なかった」というのがあると思います。

私がファザーリング・ジャパンの活動に参加し始めたきっかけは、ロールモデルになるパパが自分の周りに居ないことが、その理由のひとつでした。ようするに「理想の父親ってどんなの?」っていうのを探していたんですね。

こちらについては、理想的なロールモデルが見つかったというよりも、たくさんのパパの育児に対する考え方や関わり方に触れたことで、改めて自分がどういう父親でありたいのか、父親として何を子どもにして挙げられるのか、残してあげられるのかということを考え、そして実践する良い機会を得ることができました。

そして、自分の内側にある原因ですが・・・

私としては、ようやく人様に自分の人生観や世界観、そしてそれに向かって自分が今何を考え、何をしようとしていて、実際に今どう行動しているのかということを、堂々と話ができるようになってきたことで、自分の生き方・考え方に少しずつ「自信」が付いてきたのではないかと思っています。

さらに内情を書くと、ようやく「この先、自分はこうやって生きて生きたい、こういうものを成しえたい。」という人生のゴールが明確にイメージできてきたということになります。

これまでは、ひたすら「良い父親、笑っている父親、りっぱな父親」といった、抽象的な「Be」しかイメージできていなかったのですが、「何を持って良い父親なのか?」「何を持って笑っている父親なのか?」「何を持って立派な父親なのか?」が自分の中で、いまいち定義できていませんでした。

そんな中で、ようやくこれに対して自分なりの答えが見つかり、それが大きな「自信」につながっているのかなぁと思います。


良い父親、笑っている父親、立派な父親の「父親」の部分は「人生」って変えてもいいかもしれないですね。

いずれにしても、親が子どもに対してやるべき最も重要な教育とは、子どもに「こうなってほしい、ああなってほしい」「こうあってほしい、ああなってほしい」という理想の生き方や人としてのあり方を、親自身が、自分の身を律して実践することです。

さぁ、今日も気合いれてがんばりましょう!

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親の教育について最近思うこと

この11月で愛娘が4歳になりました。

ここまで大きくなってきたことが原因かどうかは定かではないが、ここ最近、私自身の子育ての概念が「育児」から「教育」に大きくシフトしてきているように感じます。

「育児」と「教育」がどう違うのかの厳密な切り分けはできていませんが、個人的には次のようか感覚を抱いています。

「育児」とは、まだ生まれて間もない「物理的に弱い存在」の子どもを、強い親が守り・育むという、どちらかというと物理空間での大人と子どもの係わり合いをあらわしたもの。

そして「教育」とは、ある程度大きくなった「物理的に弱い存在ではなくなった」子どもに、人間としてこうあってほしい、こう生きてほしいという願いをこめて、人類の英知を伝承していく大人と子どもの係わり合いをあらわしたもの。

こんな感覚を抱いています。

育児については、物理空間上の話なので、大人が何をすればよいのかある意味非常に明確でわかりやすい。

◆同じ時間を一緒にすごす。

◆同じ時間に同じものを食べる。

◆子どもと一緒になってたくさん遊ぶ。

◆危険なものは子どもから遠ざける。

◆生活空間のなかで体同士が触れ合う、ぶつかり合うことを重視する。

こんな感じになると思います。

しかし「教育」となると、私の認識では情報空間における英知の伝承となるので、そもそもが抽象的であり、日々の生活のなかで、具体的に何をすることが教育なのかということをずっと考えていました。

そしてここ最近、やっとひとつの方向性というかあるべき姿が見えてきました。

それは、子どもに「こうなってほしい」「こう生きてほしい」という願いを、親自身が日々の生活のなかで体現すること、それこそが「教育」だと思うようになりました。

例えば・・・

「子どもには、夢を持って人生を生きてほしい。」

「子どもには、優しい人になってほしい。」

「子どもには、自分の意見を堂々と言えるような人になってほしい」

「子どもには、自分が大好きなことを仕事にして生きてほしい。」

「子どもには、日々精進して人から尊敬されるような人になってほしい。」


普通の親だったら、自分の子どもに対してこういった「期待」は少なからず持っているものだと思います。

そして、そうなってくれることを夢見ながら、日々の生活のなかで、子どもに対して「ああせい、こうせい」と、子どもに口出しします。

もしくは、「あの人は立派だから、ああいった人になりなさい。」と自分が知っている立派な人や、過去の偉人、もしくは今をときめく有名人を理想郷として子どもに教え込みます。

私はこれに対してずっと違和感を持っていました。多分自分が中学生ぐらいのときから・・・

今でもはっきり覚えているのが、学校の先生が道徳か何かの授業のなかで「○○のような立派な人になりなさい!」っと威勢よく説教しているのを聞いて、「じゃあ、先生は○○のように立派な人なんですか? そしたらその人じゃなくて、自分を目指せって言えばいいじゃないですか。」といって、こっぴどく怒られた記憶があります。

自分ができもしない、なれもしないのに、子ども(を含む他人)に「ああせい、こうせい」とか「ああなれ、こうなれ」といわれても、まったく説得力がありません。

そんな矛盾は子どもでも直ぐにわかります。

だからこそ、「教育」というのは、「教育する側」が、「教育する内容」を既にマスターしている必要があり、「教育する側」がマスターしているからこそ、「教育される側」は尊敬の念を覚え、「大人(親・先生)のようになりたい」と思うものだと、私は考えるのです。

子どもに対して「教育」や「しつけ」というラベルを借りて、自分のエゴや劣等感を押し付けるかのごとく「ああせい、こうせい」というのは教育でもなんでもない。

子どもに「こうあってほしい」「こう生きてほしい」ということを、親(大人)自らが実践し、日々の生活の中でその生き様を見せることが、何よりも大切な教育だということに、ようやく気がつきました。

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精神の成長と煩悩の関係

昨日のブログは下記の様な文章で締めくくりました。

しかし、今回書いたことは、みんなが聖人君子を目指しましょうってことになっていますが、これが地球上で達成されるには、あと数百年かかるのではないでしょうか?

そうであれば、ある程度は煩悩を満たしてあげつつ、同時に抽象度の高い思考・視点を身につける必要があるのではないかと思います。

今日はこのあたりを考察していきましょう。

まずは「煩悩」なるものを具体的に定義してみたいと思います。

煩悩とは何なのでしょうか?

Wikipediaによると煩悩とは「心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働きを言う。」とあります。

うぅ~ん… どうもしっくりきませんね。

っということで、煩悩とかエゴについてはいろいろと調べた結果、苫米地先生が書かれている著書にあった表現がもっともストレートでわかりやすい表現だったのでそちらで定義してみたいと思います。

苫米地先生は、煩悩とは人間の原始的な脳から発せられる強烈な「種の保存」欲求だと説かれています。

これについては、ちょっと解説が必要だと思います。

例えばある男性が、「俺は年収1億かせいで、車はエンッオ・フェラーリで、六本木のミッドタウンに住みたい!」という夢というか欲望を持っていたとします。

これって一般的に煩悩が強いと解釈されると思います。(「大きい」のではなく「強い」のです。)

一方、「僕は食いっぱぐれない程度の年収で、車は自転車、住むところはこじんまりとした賃貸住宅でいいや。」っていう男性がいたとします。

この両者を比べたら、明らかに前者の男性のほうが煩悩が「強い」ですよね。

そして、この2人の男性を比べたときに、どちらがより「種の保存」、イコール自分の遺伝子を残したいという欲求が強いかというと明らかに前者の男性のほうが強いのです。

要するに、「俺は年収1億かせいで、車はエンッオ・フェラーリで、六本木ヒルズに住みたい!」っという願望の中に、「これだけのものをもっていたら俺はもてるだろう」「もてるということは、自分の遺伝子を残す機会をよりたくさん得ることができるだろう」という原始的な欲求が隠されているのです。

この例をいろいろな「欲」に当てはめると、実にわかりやすいですよね。

「○○がほしい」「○○したい」「○○に行きたい」e.t.c...

あらゆる欲望の根源にあるのは、「より異性にもてたい」「自分の遺伝子をより多く残したい」という原始的な欲求が根源であり、この欲望を「煩悩」と読み替えると、煩悩の正体がよりはっきりと見えるのではないかと思います。

こう煩悩を定義すると、こういった「自分勝手な欲望」がなかなか手にできない、要するに自分の思い通りにならないからこそ、Wikipediaにある「心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働きを言う。」という状態になるのではないかと思うのです。

煩悩の正体と、煩悩が強ければ強いほど「心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き」が活性化されてしまうメカニズムについて定義してみました。

だからお釈迦様は「煩悩はほどほどにね。」っと説いているわけですね。
お釈迦様は煩悩の本質を良くお分かりだったんですね。

「ほどほどにね。」っと言っているのは、煩悩がなくなるってことは、「種の保存本能をなくす」ということであり、結果人類が絶滅への道になってしまうからです。

仏教の流派によっては、「煩悩=悪」であり、解脱によって煩悩にさよならしましょうという教えがあるようですが、これはお釈迦様の教えではないようです。

うわ!

煩悩の解説と考察で結構な文量になってしまいましたね…

それでは、「ある程度は煩悩を満たしてあげつつ、同時に抽象度の高い思考・視点を身につける」のテーマについては、明日引き続き考察していきたいと思います。

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