カテゴリー「親の成長」の7件の記事

2010年、更なる飛躍の年に!

新年、明けましておめでとうございます。
2010年も無事に明けました。

2009年は、長野県・飯綱町への移住から始まり、娘の幼稚園入園、新しいビジネス基盤の構築、新しい人間関係の構築と変化に富んだ1年になりました。

そして多くの素晴らしい人たちと出会うことができ、またたくさんの方から支えられて、素晴らしい年にすることができました。

恐らく2009年は、一生忘れられない年になることでしょう。

そして2010年。

今年は更なる飛躍の年にしたいと思っています。

いや、必ず飛躍の年にします!

具体的には、ITとはまったく関係の無い、新しいビジネスをはじめます。

この2年ぐらい、ずっと思い描いていたビジネスなのですが、新しい生活基盤が完成したことを受けて、ようやく機が熟したと感じています。

どんな形で、誰と立ち上げることになるのか?

まだ詳細は決まっていないのですが、きっと素晴らしい出会いに恵まれ、最高のメンバーで新しい事業が立ち上げられると信じています。

2050年・・・

OECDにおける「国民の幸福度調査」で、日本が5年連続世界1になる・・・

そんな日を新しい事業のゴールとして、走り始めたいと思います。

今朝も午前5時には起床して、今まさにその目標設定・ゴール設定が完了したところです。

どういった形で表に出ることになるのか、自分でもすごく楽しみです。

もちろん、現在の生業であるITコンサルタント・ファシリテータの仕事も、これまでと同じように、精進する所存です。

こちらも具体的ではなく、まだ構想(妄想)の段階なのですが、前から頭に思い描いている「コンテンツ・ビジネス」については、何らかの方法で形にしていきます。

それでは本年度も、よろしくお願いいたします。

追伸:
外は大変な雪でこれから雪かきです・・・(笑)

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教育とは教育者自身の身を律することから

昨日の続きになります。

昨日、親としての教育は、子どもに「こうなってほしい、ああなってほしい」「こうあってほしい、ああなってほしい」という理想の生き方やあり方を、親自身が自身の身を律して実践することだと書きました。

突き詰めていくとなんとも簡単なことなのですが、こんなことに気がつくのにずいぶんと時間がかかったような気がします。

ここで「なぜ時間がかかったんだろう?」っという問いが生まれました。

なぜ、こんな簡単なことに気がつくのに、こんな時間がかかったのだろう・・・

こんなわけのワカラン疑問が浮かび上がったとき、私は自分の内側と外側双方の原因を探ることにしています。

恐らく自分の外側の原因としては、「そんなことをいっている人もやっている人も自分の周りにはほとんど居なかった」というのがあると思います。

私がファザーリング・ジャパンの活動に参加し始めたきっかけは、ロールモデルになるパパが自分の周りに居ないことが、その理由のひとつでした。ようするに「理想の父親ってどんなの?」っていうのを探していたんですね。

こちらについては、理想的なロールモデルが見つかったというよりも、たくさんのパパの育児に対する考え方や関わり方に触れたことで、改めて自分がどういう父親でありたいのか、父親として何を子どもにして挙げられるのか、残してあげられるのかということを考え、そして実践する良い機会を得ることができました。

そして、自分の内側にある原因ですが・・・

私としては、ようやく人様に自分の人生観や世界観、そしてそれに向かって自分が今何を考え、何をしようとしていて、実際に今どう行動しているのかということを、堂々と話ができるようになってきたことで、自分の生き方・考え方に少しずつ「自信」が付いてきたのではないかと思っています。

さらに内情を書くと、ようやく「この先、自分はこうやって生きて生きたい、こういうものを成しえたい。」という人生のゴールが明確にイメージできてきたということになります。

これまでは、ひたすら「良い父親、笑っている父親、りっぱな父親」といった、抽象的な「Be」しかイメージできていなかったのですが、「何を持って良い父親なのか?」「何を持って笑っている父親なのか?」「何を持って立派な父親なのか?」が自分の中で、いまいち定義できていませんでした。

そんな中で、ようやくこれに対して自分なりの答えが見つかり、それが大きな「自信」につながっているのかなぁと思います。


良い父親、笑っている父親、立派な父親の「父親」の部分は「人生」って変えてもいいかもしれないですね。

いずれにしても、親が子どもに対してやるべき最も重要な教育とは、子どもに「こうなってほしい、ああなってほしい」「こうあってほしい、ああなってほしい」という理想の生き方や人としてのあり方を、親自身が、自分の身を律して実践することです。

さぁ、今日も気合いれてがんばりましょう!

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親の教育について最近思うこと

この11月で愛娘が4歳になりました。

ここまで大きくなってきたことが原因かどうかは定かではないが、ここ最近、私自身の子育ての概念が「育児」から「教育」に大きくシフトしてきているように感じます。

「育児」と「教育」がどう違うのかの厳密な切り分けはできていませんが、個人的には次のようか感覚を抱いています。

「育児」とは、まだ生まれて間もない「物理的に弱い存在」の子どもを、強い親が守り・育むという、どちらかというと物理空間での大人と子どもの係わり合いをあらわしたもの。

そして「教育」とは、ある程度大きくなった「物理的に弱い存在ではなくなった」子どもに、人間としてこうあってほしい、こう生きてほしいという願いをこめて、人類の英知を伝承していく大人と子どもの係わり合いをあらわしたもの。

こんな感覚を抱いています。

育児については、物理空間上の話なので、大人が何をすればよいのかある意味非常に明確でわかりやすい。

◆同じ時間を一緒にすごす。

◆同じ時間に同じものを食べる。

◆子どもと一緒になってたくさん遊ぶ。

◆危険なものは子どもから遠ざける。

◆生活空間のなかで体同士が触れ合う、ぶつかり合うことを重視する。

こんな感じになると思います。

しかし「教育」となると、私の認識では情報空間における英知の伝承となるので、そもそもが抽象的であり、日々の生活のなかで、具体的に何をすることが教育なのかということをずっと考えていました。

そしてここ最近、やっとひとつの方向性というかあるべき姿が見えてきました。

それは、子どもに「こうなってほしい」「こう生きてほしい」という願いを、親自身が日々の生活のなかで体現すること、それこそが「教育」だと思うようになりました。

例えば・・・

「子どもには、夢を持って人生を生きてほしい。」

「子どもには、優しい人になってほしい。」

「子どもには、自分の意見を堂々と言えるような人になってほしい」

「子どもには、自分が大好きなことを仕事にして生きてほしい。」

「子どもには、日々精進して人から尊敬されるような人になってほしい。」


普通の親だったら、自分の子どもに対してこういった「期待」は少なからず持っているものだと思います。

そして、そうなってくれることを夢見ながら、日々の生活のなかで、子どもに対して「ああせい、こうせい」と、子どもに口出しします。

もしくは、「あの人は立派だから、ああいった人になりなさい。」と自分が知っている立派な人や、過去の偉人、もしくは今をときめく有名人を理想郷として子どもに教え込みます。

私はこれに対してずっと違和感を持っていました。多分自分が中学生ぐらいのときから・・・

今でもはっきり覚えているのが、学校の先生が道徳か何かの授業のなかで「○○のような立派な人になりなさい!」っと威勢よく説教しているのを聞いて、「じゃあ、先生は○○のように立派な人なんですか? そしたらその人じゃなくて、自分を目指せって言えばいいじゃないですか。」といって、こっぴどく怒られた記憶があります。

自分ができもしない、なれもしないのに、子ども(を含む他人)に「ああせい、こうせい」とか「ああなれ、こうなれ」といわれても、まったく説得力がありません。

そんな矛盾は子どもでも直ぐにわかります。

だからこそ、「教育」というのは、「教育する側」が、「教育する内容」を既にマスターしている必要があり、「教育する側」がマスターしているからこそ、「教育される側」は尊敬の念を覚え、「大人(親・先生)のようになりたい」と思うものだと、私は考えるのです。

子どもに対して「教育」や「しつけ」というラベルを借りて、自分のエゴや劣等感を押し付けるかのごとく「ああせい、こうせい」というのは教育でもなんでもない。

子どもに「こうあってほしい」「こう生きてほしい」ということを、親(大人)自らが実践し、日々の生活の中でその生き様を見せることが、何よりも大切な教育だということに、ようやく気がつきました。

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Good bye YOKOHAMA !

ついに長野移住の前日になってしまいました。

去年の今頃にこちらの幼稚園のことを知って、ちょうど1年。

いろんな共時性が重なって、あっという間に移住ということになりました。

現在住んでいる横浜の家は、移り住んで4日目で愛娘が生まれて、それ以来本当に「楽しい思い出しかない」住まいです。

なので、少しは後悔の念とか名残惜しさみたいな念が残るのかなぁ~っと思っていたのですが・・・

なぜかまったくそんな思いはまったくないです。

それも、この住まいでの生活が、「自分の人生を取り戻すことができた3年間」だったからかなぁ~っと思います。

娘が誕生してからの3年間は、まさに「自分の人生を取り戻す3年」でした。

自分は何のために生まれてきて、何がやりたくて、何をやればいいのかのかを考えてきた3年間。

そして実際に、自分の人生のハンドルを取り戻すことができたというのが一番大きな変換だったのかなという思いです。

今回の「移住」という選択は、ものすごく勇気を振り絞った決断というよりも、自然に流されるように、でも「強い確信」をもって決断できました。

これまでの人生でも最良(≠最大)の決断だと思っています。

このような決断ができたのも、スリーインワンとソースという、人生を悦びに導いてくれるすばらしいツールにであえたこと、そして頼りない私をサポートしてくれる妻と、私に生きる活力を供給し続けてくれる愛娘がいたから。

そして、僕のことを理解していろいろとサポートしてくれる先輩、友人、仕事仲間、NPO仲間・・・

数え上げればきりがないのですが、私の身近にあるすべての人や要素が今回の決断をサポートしてくれたのだと思います。

本当にありがとうございました。

受け取る(TAKE)ばっかりで、なかなか与えること(GIVE)ができない自分ですが、移住後もこれまで以上に強い絆でつながっていたいと心から思います。

ありがとうございました!
そしてこれからもよろしくです!!

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ダヴィンチ脳・能力開発プログラム!

ドクター苫米地の最新教材、「ダヴィンチ脳・能力開発プログラム」が届いた。

200811182010000






早速いつものとおり、音源だけをMP3化して3倍速のスピードリスニングコンテンツを作成。


はじめは3倍で、その後は3×1.25倍→3×1.5倍の速度で速聴してゆく。
もう苫米地さんの口調にはなれたので、3倍速以上でも余裕で聞き取れるようになった。


そして内容は・・・  う~ん、深くて楽しい。


深いけど、これまでの彼の著書とスリーインワンを勉強しているおかげで、ほぼストレス無くすんなりと理解できる。


速聴の効果もあると思う。


まず印象に残ったのが、変性意識の定義。


変性意識とは、物理空間ではなく情報空間にリアリティがある状態とは本当に簡単で且つ本質的な解説であると思う。


精神世界系の本だと、この変性意識のことをかなり怪しい表現(霊界等)で書いているが、霊界も含めて全て脳科学で説明をしているところが苫米地博士のすごいところ。


そこでふと思ったことは、なぜ瞑想をするときには「寝る(横になる)」ではなく、「座る」のかということ。


瞑想とは積極的に変性意識状態に移行する行為である。


物理空間から情報空間にリアリティを移すには、物理空間からの影響が少なければ少ないほどスムーズに移行できるはず。


寝ている状態では、物理的に体が他の物体に触れる面積が多い。


立っているのはバランスを取らなければならず、これまた物理世界の影響が大きい。


座っている状態というのは、物理空間との接点が最も少ない肉体の状態なのだ。


私は椅子に座るよりも、座禅用の座布団に胡坐をかいて座る瞑想が一番早く変性意識状態に入ることができるが、これも良く考えると椅子に座るよりもバランスを取る必要が無く、また座禅専用の座布団であることから、肉体への負担がものすごく少ないのだ。


これは物理空間からのの影響が最も少ないスタイルであるからに違いない。


自分の瞑想スタイルがロジカルに説明できるようになった。

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目に見えない「戦争中」なのだろうか?

9月2日に内閣府がワークライフバランス(仕事と生活の調和)に関する意識調査結果を公表しました。

このデータによると。「仕事優先」を望む人は2.0%しかいないのに、現実は半数近くの48.6%が仕事優先になっているのが実態であるとのことでした。

そして、ちょうど同じ9月2日、私のスリーインワンの師匠であるまぁちゃんもこのようなブログを書いておられました。(そんなに仕事が大事なのか?

私も情報システム関係の仕事をしていることがあり、突発的なシステム障害の発生、もしくは緊急のプロジェクトミーティング等に対応するために、やむを得ず仕事以外の約束を変更してもらったりすることがあります。

自分が何かを解決しないとたくさんの人が家に帰れない、仕事を進められないという状況におかれると、友人との食事や楽しみにしていたセミナーよりも、やはり仕事(=問題解決)を優先してしまいます。

こういった状況って「・・・」思っていたところ、このような内閣府からの調査結果が出ました。私のようなITエンジニアの仕事は非常に特殊で、例外的だから仕方がないと思っていたのですが、それ以外の業種でも仕事優先にせざる終えないという状況なのですね。

たしかにたまに仕事が遅くなって終電近くの電車に乗ると、朝のラッシュと変わらないぐらいに電車には人があふれています。

この状況に対して、「みなさんもっとワークライフバランスを意識して仕事以外の生活にも目を向けましょう」というのは簡単ですが、私は今の状況をちょっと違ったフレームワークに当てはめてみたいと思います。

先日の記事に「近代日本の歴史は70年周期で動いている」という記事を書きました。

これに当てはめると、70年前というのはちょうどシナ事変が起こり、泥沼の日中戦争に突入していく年、そしてさらにその70年前というのは明治維新の年になります。

双方共に、たくさんの国民の命が犠牲になった動乱の時期にあたります。

そして現在をこの70年周期説のフレームワークに当てはめてみると、今の起こっているこの状況が説明できるのではと思います。

例えば何かの約束があったときでも「ゴメン!仕事が・・・」っという理由だと、相手方も「あぁ、仕事だったらしょうがないね~」っとなるのが一般的ではないでしょうか?

また、女性のビジネスパーソンがものすごくフューチャーされる時代背景があり、男女を問わず「朝から晩まで仕事をする」のが当たり前の社会通念になりつつあります。

もうすぐ「ワーキングマザー」という言葉がなくなるかもしれないというぐらい、働く女性が増えていますよね。

我々仕事を持つ父親のことを「ワーキングファザー」と呼ばないように、「ワーキングマザー」が一般化してくるとこの代名詞もいらなくなると思います。

それぐらいの勢いで仕事をする女性が増えています。

※決して女性が仕事をすることが悪いといっているわけではないので、誤解しないでください。

このようにみんなが「仕事・仕事・仕事」となっているのが今の世の中ですね。

そして仕事で成功し、お金をたくさん稼いでいる人=成功者、そうでない人は「負け組」というレッテルを貼られてしまいます。

この状況を70年前の出来事に当てはめられるのではと思います。

とにかく家庭(国民)のあらゆるの資源を「仕事」に注ぎ込むというのは、ちょうど70年前に制定された「国家総動員法」のようです。

さらに何かの理由を述べるときには「仕事だから」という画一的な免罪符が存在するのも、「御国のために」という免罪符のあった70年前と非常に似通っていると思います。

70年前は軍隊に入って軍で出世することが成功者であり勝ち組の証でした。軍隊にも入らず、平和を論じている人たちは「非国民」であり、やはり「負け組」の象徴でした。

そして現在の我々が最も注意しなければならないのは、仕事関係で命を落とす人の数の増加です。

この10年で、毎年3万人以上の人が自殺しているという異常事態。

10年で30万人以上の日本人が、何らかの社会的なストレスを感じて自殺しているのです。

仕事・社会的なストレスが自殺と強い関連があるというのは、こちらの統計データではっきりと出ています。

さらにうつ病患者に目を向けると、その潜在的な数は既に国民の1割である1000万人を超えているのではといわれています。

私にとって、これまで自殺やうつ病というのは、私にとってはテレビや新聞の中の世界での出来事でした。

しかしここ最近、極身近にいる人たちが鬱の経験をしていたり、友達に自殺者がいたりしています。

これは「仕事」を「戦争」という言葉に置き換えると、70年前の状況と現在の状況が明らかに符合しているように感じます。

直接的な暴力はないのですが、実は戦時中と同じぐらいの人たちが命を落としているのです。

これを戦争といわずになんと表現するのでしょうか。

我々が意識をしないところで、実は戦争は起こっており、何よりも現在のケースはそれにほとんどの人が意識レベルでは気がつけないというところに、問題の難しさ、深刻さがあるのだと思います。

太平洋戦争の終結である1945年をひとつの節目とすると、次の70年周期の終わりは2015年になります。

70年周期説に当てはめると、あと7年ぐらいはこのような状況が続く、いやさらにこの状況がひどくなっていくことが予想されます。

1938年から1945年の終戦までにあった出来事と、本質的には同じようなことがこれから7年の間に発生する可能性があります。

直接的な戦争ではなく、目に見えない何かがおこっている。

そしてその先には、現在「当たり前」とされている大きな価値観の変化が訪れます。

我々子どもを持つ親は、こういった時代認識をしながら子育てをしていく必要があります。

ではこの先どういった価値観の変化がおきるのか?
機会があれば、このブログで私なりの意見を書いていきたいと思います。

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親育てとは?

これから書くことは、先に見えた(見えてしまった)右脳的なビジョンに対して、左脳的に後付したものです。

まず「親育て=親自身の成長=人間の成長」という公式に当てはめて書いていきます。

人間の成長からブレイクダウンしていきますね。

まず「人間」というのは、大きく2つのもので構成されています。

ひとつは「肉体」、ひとつは「精神」です。

人間は、肉体の成長と精神の成長が伴って自立をしていくものだと思いますが、ある一定の年齢に達すると、肉体の成長は止まります。

しかし、精神の成長は本人がその気になれば一生涯、死ぬ直前まで成長していくものです。

ですので私は、「精神的な成長」というのは、人間に課せられたひとつの課題というか修行のように思うのです。

なので、親自身の成長とは親の精神面での成長であり、親育てとは、親が精神的に成長することだと思うのです。

それでは、精神面の成長とはどのようなことをいうのでしょうか?

私は「精神面の成長」とは、究極のところ「人間関係の達人になる」ことと不可分のことだと思います。

人間関係の達人とは、自分以外の誰とでも、そして自分の中に居るもう一人の自分との関係においても、常にトラブルなく上手に付き合っていける人のことを言います。

私のお師匠さんである斉藤一人さんは、「人間がこの地球上で必ずみなに課せられている修行がある。それは人間関係の修行だ。」とおっしゃられていますが、まさにそのとおりだと思います。

物事を単純化すると本質がわかるといいますが、例えば世界中に100人しか居なかったとして、そのすべての人ひとりひとりが、自分以外の99人と常に良好な人間関係を保てる器量があり、他の99人の幸せを常に願い、そのように行動できる人であれば・・・

今世界でおきているすべての問題は解決してしまい、地球はそれこそ天国になると思います。(もともと地球は天国のような星なんですけどね。)

もちろん今の人類の精神レベルだと、この99人の中で必ず「裏切り者」が出てくるので、このような世界は単なる理想論になってしまうのですが、現在の人類が精神的な成長の到達点として目指すひとつのゴールはここにあるのではないかと思います。

この、「自分以外の99人の幸せを常に願いながら、そのように行動できる人間になる」ことが、人間としての成長であり、親自身に求められる成長であり、親育てのひとつのキーワードであると思っています。

「自分以外の99人の幸せを常に願いながら、そのように行動できる人間」

まさに人間関係の達人だと思います。

こういう人の周囲には絶対に人間関係のトラブルは絶対に起こりえないと思います。

また、今地球上に「人間が居るからこそ発生しているさまざまな問題」も、全て解決するのではないかと思います。

そして「自分以外の99人の幸せを常に願いながら、そのように行動できる人間」とは、本当に精神が成熟した人間でないとなれないと思います。

精神レベルの成熟とは、自分の煩悩、自我よりも高い抽象度で物事を観ることができて、より良い判断と行動ができる状態ことをさすのではないかというのが私の考えです。

自分の煩悩に執着している人間の精神レベルと、常に周りの幸せのことを考え、行動できる人間の精神レベル、どちらが上か。

答えは簡単ですよね。

今回は、こんな順序だてで親育ての中身を定義してみました。

親育て=親自身の成長=人間の成長=人間関係の達人=自分以外の99人の幸せを常に願い、そのように行動できる人間


いや~自分自身に対する戒め以外の何者でもないですね。この文章・・・(苦笑)


しかし、今回書いたことは、みんなが聖人君子を目指しましょうってことになっていますが、これが地球上で達成されるには、あと数百年かかるのではないでしょうか?

そうであれば、ある程度は煩悩を満たしてあげつつ、同時に抽象度の高い思考・視点を身につける必要があるのではないかと思います。

このあたりを明日、考察していこうと思います。

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