オープンスペーステクノロジー

この年末年始にいくつかのミーティング手法に関する書籍を読みました。

その中でも面白かったのが「オープン・スペース・テクノロジー ~5人から1000人が輪になって考えるファシリテーション~」という本で紹介されていたミーティング手法。

一言でいうなら「決めない会議」といったところでしょうか。

私がこの本を手に取った目的は3つあります。

ひとつは、現在娘が通っている幼稚園の保護者会に新しいミーティングスタイル導入の必要性を強く感じていること。

ひとつは、コレクティブ・ハウスを造る過程、及び完成後の居住者ミーティングにおいて、このミーティングスタイルが、非常にマッチしているのではないだろうかという推測を確かめること。

ひとつは、企業におけるミーティング手法の新しいひとつの方法として、特に新しいアイデアや企画を話し合うような「創造性」が求められる会議の手法として適しているのではないだろうかとう推測を確かめるため。

ではオープンスペーステクノロジーの中身を簡単に見て聞きましょう。

ちなみに詳しい内容はこちらのページに紹介されています。

私が感じた、このオープンスペーステクノロジーの面白いところ・・・

っというよりも、従来「理想」とされてきた会議と決定的に異なる点が2つあります。

ひとつは「アジェンダが無いこと」、もうひとつは「ファシリテータは極力何もしないこと」。

この2つです。

昨今「理想」とされているミーティングは、「会議の目的と目標を明確に設定する。」「アジェンダをしっかりと作成して、その内容を参加者全員に浸透させる。」「論点の外れた議論にならないように、ファシリテータが議論の交通整理を行う。」という、おおよそ3つに集約されると思います。

オープンスペーステクノロジーでは、この「理想」とされるミーティングスタイルとはずいぶんかけ離れており、ともすれば従来の「非生産的な会議」に逆戻りしてしまいそうな手法です。

では、オープンスペーステクノロジーは

なぜアジェンダを作成しなくてもうまくいくのでしょうか?

なぜファシリテーターが極力何もしないのにうまくいくのでしょうか?

私はそのキーワードが3つあると理解しました。

ひとつは、「目的は定めるが目標は設定しない。」(展開型)

ひとつは、「参加者の主体性と情熱により運営される。」(内発的動機)

ひとつは、「理論にうらうちされたルールが存在する。」(体系化)

・・・おっと、こんな時間だ!

この続きは明日書きたいと思います!

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問題を解決しようとしてはいけないは本当か?

最近は「仏教ブーム」らしく、我々30~40代にかけての男女を問わず、般若心経や座禅(瞑想)に勤しむ方が増えてきたというニュースを目にした。

これが良いことか、悪いことかはよくわからないが、明らかに言えることは「物質的に満たされることが自分の幸せではない。」「自分の幸せ・人の幸せとはいったいナンなのだろう?」という集合的無意識が発している大きな問いに対するひとつの「解」だと思う。

そして何を隠そう、私も仏教は哲学として高く敬っている。

やはり、昨日のブログにも書いたとおり、物質的には非常に満たされ、だからこそ精神を高めることも同時に求められているにもかかわらず、そういった精神修養をする機会というのがあまりにも乏しい世の中にあって、宗教というのはひとつのそういった場であることは明らかである。

ただ、こういった宗教がブームとなってしまう中では、いくつか気をつけなければならないことがある。特に仏教については、あまりにも研ぎ澄まされた教義であるため、それ相応の知識がないと、お釈迦様の教えを誤って解釈している「宗派仏教」に取り込まれてしまう可能性があるということだ。

その代表的な「誤った解釈」というのをひとつ見ていこう。

私はとある仏教者が書いた本で、「問題を解決しようとしてはいけない。」「問題は全て必然なものなのだから、やがて自然に解決される。」というのを読んだことがある。

私はこれを読んだとき、「それって本当にお釈迦様が言ったことかいな?」っと疑問を覚えた。

なぜならば、「問題を解決しようとしてはいけない」という人は、問題を解決しようとしている人を問題視し、その問題を解決するために、「問題は解決しようとしてはいけない」といっているのだ。

これは明らかに「矛盾」している。

こんな矛盾したことをお釈迦様はおっしゃったのだろうか・・・?

人間の根源的な欲求として、どんなに満たされていても、常に何かを問題視し、それを解決しようとする、もしくは解決できないために悩み・苦しむというのは、当たり前なのではないか?

確かにお釈迦様は、全ての悩み苦しみは「執着」から生まれるととかれた。

執着とは、恐らく何らかの問題を解決したいという執着だろう。

問題とは、理想と現実のギャップだ。

このギャップを埋めるために、一生懸命悩み、苦しむ。

これを仏教では煩悩という。

お釈迦様は、この煩悩を克服するために難行・苦行に明け暮れられた。

しかし、この煩悩を完全に克服することはできず、悩みをなくすための難行・苦行というのは無駄であると説かれた。

そして煩悩については、「それにコントロール(支配)されるな。」っと言っているのであって、「無くしてしまえ」といっているのではない。なぜなら、煩悩がゼロの状態とは「生きること」に対する執着がなくなった状態であり、その人間はまもなく死んでしまうからだ。

全員が煩悩を克服したら、それは人類滅亡の瞬間なのである。

人間はその脳の構造上、完全に「問題(より良く生きることの執着)を無視することはできない。」

先に述べたように、「問題を解決しようとしてはいけない」という人は、問題を解決しようとしている人を、問題視している。

これもひとつの問題への執着である。

もし問題視していないのであれば、「問題を解決しようとしてはいけない」ということを発言する必要は無いからだ。

だから、問題を解決しようとしてはいけないという格言(?)を発せられた人は、実は問題を一生懸命解決しようとしているひとと、同じことをしているということだ。

人間は、常によりよい未来を思い描き、それに向かって精進することで進化してきた動物である。

よって、「問題=理想と現実のギャップ」は解決すべきものなのだ。

但し、この問題解決行動でひとつ気をつけなければならないことがある。

それが、この数十年で大きく定義の変わった「自由」と密接に関連している。(次の議事は、この「新しい自由の定義」について、書きたいと思う。)

いずれにしても、素晴らしい仏教の教えだからこそ、その教義を敬う人をよりよく生かすことも、逆に殺してしまうこともできる。

まさに昨日のブログに書いたとおり、便利なものほど切れ味が鋭いのだ。

これから仏教の世界を探求される方は、その教えそのものを、常に高い抽象度から眺める訓練をしたほうが良い。

抽象度を高めることによって、問題を解決しようとしてはいけないという人と、問題を一生懸命解決しようとしている人が、実は同じレイヤーの人間だということが良くわかるようになる。

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便利なものほど切れ味が鋭い

最近、便利なものほど切れ味が鋭いので、それを「使う側」の精神性も、その道具とおなじぐらい洗練されたもので無いといけないということを心から思う。

そして、特にそのことを痛感するのが「言葉」と「知識」だ。

便利なものというと物理的なものを思い浮かべるかもしれないが、それ以上に情報空間・情報も「諸刃の刃」であることを強く感じる。

言葉・知識というのは、それが豊かになり、それを「正しく」使用すれば多くの人を幸せにする力を持っている。

しかし、使い方を間違えると、人を殺すことさえありうる。

特に現代は知識という知識が、情報として簡単に入手できる時代だ。

にもかかわらず、人の精神性を磨く、洗練する機会というのがなんと少ないことか。

ここでいう精神性とは、2つの意味を含む。

ひとつは、他の人をおもんぱかる気持ち。「愛情」と表現しても良いと思う。

そしてもうひとつは、人間如何に生きるべきか?という本質的な問いである。

言葉・知識を外に向かってアウトプットする際には、この2つを常に肝に銘じながら使うことで、はじめて「正しく」使えるものだと思う。

そのためには、個々人が何らかの方法で、「精神性」を高める修行をする必要があるのではないか?

今年のテーマ、及びマイ・クレドには、この「精神性の修行」ということを明記しておこう。

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マイ・クレド作成中

この年末年始は、集中的に20冊ぐらいの本を乱読しています。

私の読書スタイルは、同時に関連する・関連しない関係なく複数の書籍を数冊並列的に読むというスタイルです。

これは、尊敬する苫米地先生が推奨している本の読み方でもあります。

そしてそれができるのは、フォトリーディングをマスターしているからですね。

さて、その本の中でも多くのワークが組み込まれているのがマイ・クレドという「自分のクレドを作って、ブレのない、一貫した人格を形成しましょう。」という内容の本です。

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「クレド」とは、自分の行動指針を簡潔な言葉で書き記したカードのことであり、リッツカールトンホテルが、企業理念を全ての従業員と確実に共有する方法として用いて高い効果を発揮したことで有名です。

クレドには、その会社の企業理念、つまり「自社の社会的な存在意義」や「何を目的とした会社なのか?」「この会社のプリンシプル(原理・原則)は何なのか?」「そこで働く人にはどうあってほしいのか?」といったことをクレドという名刺サイズのカードに書き困れています。

それを全ての従業員が何度も確認し、さらには従業員同士でクレドの内容に対して、今自分たちはどうなのかということをレビューし、そのプリンシプルに沿った企業文化を作り上げていくのに貢献しているものなのです。

昨今の会社では、IT技術の発達により「情報」の共有は簡単になったが、「ビジョン」を共有するのは極めて難しくなったと、ある経営者がおっしゃられていました。

これだけ価値観が多様化(価値観が無くなった?)した現在、ひとつのビジョンを複数名で共有するには、相当の工夫と時間が必要なのではないかと思いますが、そのひとつの解決策としてクレドは非常に有効なものだといわれています。

そして、そのクレドをパーソナルなレベルで作成しましょうというのが、こちらの本になります。

久々に自分自身の価値観や思想の棚卸をする機会を持ちました。

やはり定期的に自分と向き合う内省的なワークって必要ですね。

さて、この中で「自分が好きな言葉」を列挙するというワークが出てきます。

私がこのワークで真っ先に思いついて書き記したのが、次の言葉です。

為せば成る。為さねば成らぬ何事も。
成らぬは人の為さぬなりけり。

これは、なくなった母方の祖父からよく言い聞かされた言葉です。

私は改めて「思いを持ったら行動する」ということを大事にしている人間なのだと気が付きました。

いろんな方とお会いして、自分のことをお話しすると「行動力のある方ですね」と賞賛のお言葉をいただくことがあります。

それはすごくありがたいことで、自分の価値観とも一致しているということで、ありがたくも誇らしい情動がこみ上げてきます。

逆に「嫌いな言葉」を列挙するワークもあります。

こちらには、こんな言葉を書きました。

・だから言ったじゃない!
・ほら、だから言わんこっちゃ無い。
・こうなると思ってたんだよね。

私の解釈では、これらは「口だけで行動が伴っていない時に発せられる言葉」だと思っています。

「だから言ったじゃない!」というのは、その言葉を発した人が、それなりに思い描いている「理想の状態」があるわけで、それが実現できなかったことを「他人のせい」にしている状況を指し示しているものだと思います。

「だから言ったじゃない!」と他人に言う前に、その理想の状態を実現するにあたって自分ができることは他になかったのだろうか?

要するに「自責」はなかったのかということです。

自責のことを考えず、理想の状態にならなかったのは全て自分の外側に原因がある、つまり「他責」のことを真っ先に発言する・・・

「嫌いな言葉」と聞いたときに、一番先に頭に浮かんだのがこのことでした。

こういった、「好きな言葉」「嫌いな言葉」以外にも、いくつかのワークが用意されており、そのワークでアウトプットされた「自分を作り上げている言葉」を拾い上げていきながら、クレドを作成していきます。

本日中には、Ver1.0が完成する予定です。

こういったワークって楽しいですね。

さて、これから恒例の雪かきです・・・(笑)

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2010年、更なる飛躍の年に!

新年、明けましておめでとうございます。
2010年も無事に明けました。

2009年は、長野県・飯綱町への移住から始まり、娘の幼稚園入園、新しいビジネス基盤の構築、新しい人間関係の構築と変化に富んだ1年になりました。

そして多くの素晴らしい人たちと出会うことができ、またたくさんの方から支えられて、素晴らしい年にすることができました。

恐らく2009年は、一生忘れられない年になることでしょう。

そして2010年。

今年は更なる飛躍の年にしたいと思っています。

いや、必ず飛躍の年にします!

具体的には、ITとはまったく関係の無い、新しいビジネスをはじめます。

この2年ぐらい、ずっと思い描いていたビジネスなのですが、新しい生活基盤が完成したことを受けて、ようやく機が熟したと感じています。

どんな形で、誰と立ち上げることになるのか?

まだ詳細は決まっていないのですが、きっと素晴らしい出会いに恵まれ、最高のメンバーで新しい事業が立ち上げられると信じています。

2050年・・・

OECDにおける「国民の幸福度調査」で、日本が5年連続世界1になる・・・

そんな日を新しい事業のゴールとして、走り始めたいと思います。

今朝も午前5時には起床して、今まさにその目標設定・ゴール設定が完了したところです。

どういった形で表に出ることになるのか、自分でもすごく楽しみです。

もちろん、現在の生業であるITコンサルタント・ファシリテータの仕事も、これまでと同じように、精進する所存です。

こちらも具体的ではなく、まだ構想(妄想)の段階なのですが、前から頭に思い描いている「コンテンツ・ビジネス」については、何らかの方法で形にしていきます。

それでは本年度も、よろしくお願いいたします。

追伸:
外は大変な雪でこれから雪かきです・・・(笑)

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火が入りました!

火が入りました!

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薪ストーブ設置完了!

薪ストーブ設置完了!

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なぜ一人月150万円の技術者の年収は1,800万円でないのか?

昨日の東京出張の帰りに、「ダメなシステム屋にだまされるな!」を購入し、帰路の新幹線の中で読みました。


同じ「システム屋」として、共感するところ、「??」っと思うところ、様々あったのですが、まずは共感する部分について、書いていきたいと思います。


まず、私の商売のスタイルにも直接紐づいている「なぜ一人月150万円」の技術者の年収は、1,800万円でないのか?という章について。


私は約10年の社内SE経験を経て、インディペント・コントラクターのITコンサルタントとして独立しました。


その経験の中から、この章に書かれていることとまったく同じことを思っていたこともあり、独立する際には「特別なオフィスを設けることはしない。」「社員は雇わない。」「間接費用は最低限に。」ということを念頭にスモール・ビジネスでやってきました。

独立の際に、オフィスを構えて社員を雇い、給与計算や各種経理処理などはアウトソーシング、もしくは社内に間接部門を設けることで会社を運営使用とした場合のコストシミュレーションを行いました。


そうすると、どうやりくりしても、現場で稼いでくるSEさんには、自分の年収の1.8~2.5倍程度を稼いでもらわないと、法人として成り立たないことがわかりました。


当然ですが、オフィスを借りて人を雇うとなると、まず一定の固定費がかかるわけですし、間接部門の人間はお金を稼いでくることが無いので、この人たちの給料分も、SEさんに稼いできてもらわなければなりません。


そうするとその費用はどこに上乗せされるかというと、ほとんどはお客さんへの見積書・請求書に上乗せされていくわけです。


しかも、本来一番固定費を食わないはずの「コンサルティング」業務に、このあたりの費用が一番乗っかることになります。


なぜならば、「エンジニアリング」業務にこれを乗せても、日本の請負型ビジネスモデルだと、「焼け石に水」となって消えていくからです。


「コンサルティング」業務というのは、正確にいうと「請負」ではなく「委任・準委任」で契約することがほとんどのはずです。


この「委任・準委任」と「請負」との大きな違いは、「完成物に対する責任の所在の有無」です。


「請負契約」というのは、契約時に定められた一定品質の完成物を納品することに責任が伴う契約であり、「委任・準委任」契約というのは、それが発生しない契約です。


日本におけるシステム開発の現場を見ていると、完成物(納品物)の仕様が固まらないまま、「業務委託契約(請負型)」を締結するケースがほとんどです。


これで何が発生するかというと、そこが見えない仕様変更地獄による納期遅延。そして業務を請け負う側から見ると、赤字プロジェクトの発生です。


日本での契約はとかくその内容が曖昧で、「何を持って完成物・納品物とするか?」の定義が曖昧のまま、完成物・納品物に対して責任をもつ契約をしてしまう傾向にあります。


個人的に日本の情報システム産業がいつまでも変わらない理由(ダメな理由)は、ここにあると思っています。


ちょっと話がそれてしまいましたが、「本来一番固定費を食わないはずのコンサルティング業務に、間接費用等の会社運転費用が上乗せされる」裏事情について書きます。


先に書いたとおり、「エンジニアリング業務」にいくらこのあたりの金額を乗せても、赤字発生のリスクが極めて大きいので、上乗せした分はほとんどが「赤埋め」で消えていきます。


そこで、確実に期間を区切っての契約が可能な「コンサルさん」の登場です。


コンサル契約というのは、完成物に責任を持たない契約であるため、極端な話だと3ヶ月間の契約の中で、プロフェッショナルとしてのサービスを提供したという証拠さえあれば、「納期の遅延」等は発生しないので、極めて赤字発生リスクが低い「商品」になります。


ここに「付加価値」という何の信用も裏づけも無い情報空間上のバリューを、あたかも「希少価値」のごとく乗せて「コンサルさん、一人月300万円也」というバブリーな商品が出来上がるわけです。


そしてこのコンサルさんの給料はというと、年収3000万ということは当然なく、せいぜい700~800万程度というのが相場なのではないかと思います。


残りの2000万超はどこに消えるかというと、会社運転資金に消えていくわけです。


SIerからすれば、こんなにおいしい商売はありません。


本当にコンサルティング能力があるかどうかわからない(日本語をしゃべることもままならない?)、おじさん・おばさん(時には兄ちゃん、ねぇちゃん)に、無理やり「コンサルタント」のラベルをくっつけて客先に送り込み、「その金額の論拠を述べよ」といいたくなるような人月単価を請求してきます。


これがSIerにおける「コンサルティング」商品の実態だと思います。


もちろん実際には、有能なコンサルタントの方がいるのも事実だと思います。


ただ残念ながら、「この人はすごい。絶対にかなわない・・・」というようなITコンサルタントさんにあったことが無いのも事実です・・・


私は日本の「システム会社」がこういった構造的欠陥を抱えていることをずっと感じていたことから、コンサルタント業をやると決めたときから、「インディペンデント・コントラクター」というスタイルでやることを決めました。


こうすることで、俗に言う「固定費」なんていうものはほとんど発生しないですし、稼がない間接部門の方の九両分を稼いでくることも無いので、SIerのコンサルさんと比べたら相当に安価な価格設定でも十分に稼業を営むことができています。


恐らく私は今後もこのスタイルを変えることは無いでしょう。


すでに日本のシステム開発現場では「SIer神話」は崩壊したといっても良いと思います。


そういった「もう大手と組むのはウンザリ・・・」というエンドユーザに対して、私は自分の知恵と経験を「適正な価格で」ご提供することが、自分のミッションだと考えています。

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コレクティブハウス見学記

去る11月28日に実施されたコレクティブハウス聖蹟の見学会に参加をさせて
いただきましたので、その感想をシェアさせていただきたいと思います。

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①ハードがすばらしい!
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ベランダに間仕切りが無いって・・・、すごい・・・
これが今回の見学会にいて、ハード(建物)に対して一番印象に残っている部分です。

もちろんそれ以外にも、コレクティブハウスならではのコモンスペースをはじめとする
素晴らしい設備はたくさんあったのですが、私が今回、何よりもコレクティブ・ハウスらしい!
と感じたのは、ベランダに間仕切りがないという造りでした。

コレクティブハウスは、よく「現代版の長屋」といわれますが、その古き良き「長屋」の
雰囲気が一番継承されている部分って、まさにこの「間仕切りのないベランダ」なのでは?
っと思いました。

居住者同士がベランダでフトンをパンパン叩きながら、「今日の晩御飯」等の日常会話を
交わしている、そしてその横を子どもたちが追っかけっこをしながら猛ダッシュで駆け抜けて
叱られるという昭和30年代まではどこでも見られたような情景が、こんなモダンな建物で
繰り広げられているのかと思うと、すごく不思議な感覚でした。

居住者同士が緩やかにつながることができるために考えられたさりげない工夫の数々。
同じクリエーターとしも勉強させられる部分が多々ありました。

なんか変なところがストライクゾーンですいません・・・

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②居住者がすばらしい!
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私がコレクティブ・ハウスに興味を持ったのは、子どもを授かって子育てというものを
真剣に考えるようになってからなのですが、今回、育児環境を変えたいという想いで
聖蹟に移住されたパパのお話を聞くことができました。

そのパパが、「ここでの住まいは、親が社会(=ハウス)の中で、ひとつの役割を担って
ここがより良く維持・発展できることに貢献している姿を見せることができる。」という
ことをおっしゃられていました。

我々の仕事のほとんどは、この15年~20年で、物理空間から「コンピュータの中」の
情報空間に移ってしまいました。

この情報空間というのは、子どもから見れば「何をしているのかさっぱりワカラン世界」で
あり、親は一生懸命働いているにもかかわらず、なかなかそれが子どもには伝わり
ずらいという側面があります。

そういった意味で、「個人が何かの役割を担って活動することで、社会がより良くなる」と
いう実例を最も身近な生活空間の中で子どもに見せることができるということは
何よりも素晴らしい教育になっていると思いました。

このことに気付かせていただいた同じ4歳のお子さんを持つパパに感謝です!!

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③CHCがすばらしい!
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このようなすばらしい住環境、そして居住者同士の関係性をコーディネートされた
CHCの活動は、改めて社会的な意義が大きいものであると再確認させていただきました。

私はコンピュータの技術者をやっているのでどうしても物事をコンピュータの世界に
置き換えて考えてしまうのですが、住居設備がハードウェアだとしたら、居住者が気持ちよく
暮らすことができるあらゆる仕組み(WS等)がソフトウェア、そしてその2つを適切に
コーディネートするオペテーティングシステム(OS)がCHCなのだと思いました。

住環境と居住者、そして居住者間同士が気持ちよく連携する仕組みを担っている
CHC(=OS)が素晴らしいからこそ、より住環境とそこに住まう居住者の方の素晴らしさ
がより増すのだろうなと感じました。

個人的にはこの11月から、より深くCHCのサポートをしていきたいとの想いで
正会員にならせていただいたのですが、この素晴らしいOSのどの部分を担うことが
できるのだろうか、そしてどういった「新機能の搭載」に貢献することができるのだろうか
と改めて考えるきっかけをいただきました。

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※臨場感空間を共有してこそ信頼関係が生まれる
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私は人と人との「信頼関係」がどのように醸成されるのかにすごく興味をもっており
そういった本をたくさん読んできました。

その中で、「信頼関係とは同じ臨場感空間を共有したもの同士の間に醸成される」という
ことがわかってきました。そしてその臨場感空間が、より生命維持活動に直結している
空間であればあるほど強い信頼関係が生まれるということがわかってきました。

そういった意味ではコレクティブ・ハウスという仕組みは、一定の生活空間を共有し
そして「同じ釜の飯を食う」仕組みがあらかじめ組み込まれているため、極めて
理にかなった「信頼関係醸成の場」と見ることができると思います。

見学会最後のQ&Aで、居住者の方が「お互いのギャップは無理をして修正しようと
しなくても、自然に良い関係が出来上がっていく」とおっしゃられていましたが
まさにナットクのひとことでした。

そして同じく、既に稼動しているコレクティブハウスという臨場感空間を「見学会」という形ですが
共有させていただいたことで、これまで本や人から教えていただいたこと以上の素晴らしい
発見がたくさんありました。

そのおかげで、「コレクティブハウスは信頼できる素晴らしい仕組み」ということを改めて感じました。

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※見学会に出かけよう!
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このようにたくさんの発見があり、またコレクティブ・ハウスという仕組みの素晴らしさを
再認識することができる見学会でした。

このMLのメンバーの中でも、まだ実際に稼動しているコレクティブハウスに出かけたことが
ないという方がいらしたら、ぜひとも見学会にご参加されることをお勧めします。
きっと、頭の中に描いているもの以上に、素晴らしい発見があると思います。

以上、長文ご容赦ください。

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なぜ人は「自由」を履き違えるのか?(その2)

昨日からの続きです。

昨日の投稿で、多くの人は「自由」に対して、3つの勘違いをしていると書きました。

次の3点が、私の感じている「皆さん、勘違いしてませんか?」という点です。

①「自由」という看板の裏側には、「責任」という裏看板があるにもかかわらず、それを知らない。

②「自由が大切だ!」と叫んでいる人ほど、実は「自由」を大切にしているのではなく「その人の自由」を大切にしているというパラドックスに陥っている。

③真の「自由」は情報空間に存在するにもかかわらず、「自由」が物理空間にあると思っている。


そして今日は、3番目の【③真の「自由」は情報空間に存在するにもかかわらず、「自由」が物理空間にあると思っている。】について書きたいと思います。


これはわかりやすく言うと、「いくら物質的に満たされたとしても自由を獲得することはできない。」ということだ。

そして引いては、物理空間に自由は無いということになる。

これにに対しては疑いの余地は既に無いといっても良いぐらい、我々一般庶民に対しても浸透していると思う。


もちろん、肉体という物理世界の中に脳と心という情報空間を持つ我々だから、一定の物質的な豊かさは満たしてあげる必要があると思う。


しかし、物が満たされれば、お金が満たされれば自由になれるという「幻想」はもはや捨てるべきである。


何よりもGDPで世界2位の位置にいる日本国民の幸福度が、OECD諸国中43位という数字が、いくら経済的に満たされていても、心が幸せになれない=自由になれないということを如実にあらわしている。


そして真の自由は情報空間にあるということに移りたい。


例えば、車の運転をしていて、別の車が非常に危険な行為で割り込みをしてきたとする。


普通であれば、カッとなってクラクションを鳴らしたり、場合によっては煽りをいれて追い込みをかけたり、場合によっては、幅寄せしてそのクルマを無理やりとめて、×××(以下256文字削除)。


要は極端な表現をすると、「殺意」を覚えるという感覚に陥る。


この「殺意」が心にこみ上げてくるのは、自分ではどうしてもコントロールできない。だって勝手にこみ上げてくるんだから、制御のしようが無い。


しかし、このこみ上げてきた「殺意」に対して、我々人間はそれを「抑制」することができる。これは制御可能なことだ。自分の感情をコントロールできるという表現のほうがわかりやすいかもしれない。


これこそが「自由」である。


心から勝手にこみ上げてくる「殺意」といのは、どうやってもこみ上げてくることそのものを制御することはできないのである。


あのお釈迦様でさえ、断食の修行中に裸の女性のイメージが何度も頭によぎって苦しまれたというエピソードがあるぐらい、脳幹(煩悩)に紐づいた原始的な生命維持活動に基づく感情というのは消し去れるものではないのだ。


これはある意味非常に「不自由な状態」といえよう。


しかし、それと同時に人間はそのこみ上げてきた感情をコントロールすることもできる。これは自分の心の持ちようや精神修養でいくらか可能なことだ。


私はこれこそが「真の自由」だと思っている。


自分ではどうしようもないことを、自分の解釈によって如何様な世界でも作り出せる「感情のコントロール技術=煩悩のコントロール技術」こそ、「真の自由」だと思っている。


ここで言う「煩悩」とは、「自分さえ良ければいい」という極めて自己チューな感情という意味で捉えて良い。


殺意なんていうのは、強い煩悩から生み出される典型的な感情のひとつだ。


それをコントロールできることこそ「自由」なのである。


そしてこれを、我々人間が生きている俗の世界に当てはめた時に、いつも頭の片隅においておきたい言葉がある。


それは「足るを知る」ということだ。


この「足るを知る」という言葉を聴くと、「多くを求めることなかれ」「現状に満足しなさい。」というふうに解釈する人もいると思うが、私は層じゃないと思っている。


この「足るを知る」という本当の意味は、「今あなたの周りを構成しているものや状況の中に幸せを見出しなさい。」「今あるもの・状況に感謝をしなさい」という意味だと思う。


そして、「今あなたの周りを構成しているものや状況の中に幸せを見出しなさい。」「今あるもの・状況に感謝をしなさい」ということを実践使用とする場合、「今感謝できるものは何だろう。」「今自分は何が幸せなんだろう」と、自分の内側に向けて自分に対して自分が質問しているような格好になる。


そしてそこから帰ってきた答えこそが「自由な答え」なのである。


なぜならば、自分由来の答えだからだ。


こう考えると、やはり自由というのは自分の内側、ようは心や精神といった情報空間に存在することがわかると思う。


自由な状態というのは物理空間、つまり自分の外側ではなく情報空間=自分の内側にあるということだ。


もう少し日常の生活における場面に落とし込むと、「やりがいのある仕事をする」のと「やりがいを持って働く」というのは、もちろん後者のほうが自由である。


「おいしいものを食べる」と「おいしく食べる」というのも、もちろん後者のほうが自由である。


やりがいのある仕事をするというのも、おいしいものを食べるというのも、それは自分の外側にあるものに大きく左右される考え方だからだ。

やりがいを持って働く、おいしく食べるというのは、自分の心の持ち方次第、感情のコントロール結果次第で、どんな食べ物でも、どんな仕事でも自分にとって幸せなものになる。


これこそが自由だ。


極論すると、自分がどんなに物理的に恵まれていなくても心から「私は自由だ」と思えばその人は自由だし、そうじゃなければどんなに物質的に満たされていても「私は不自由だ」と思えば、その人は不自由なのである。

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«なぜ人は「自由」を履き違えるのか?(その1)